東京都三鷹市の禅林寺森鴎外墓へ!アクセスと太宰治との関係

東京都三鷹市にある黄檗宗の霊泉山禅林寺には、日本近代文学を代表する文豪である森鴎外の墓所があります。文学ファンなら一度は足を運んでみたい場所ですが、初めて行くとなると電車やバスを使ったアクセス方法、車で行く場合の駐車場の有無など、いろいろと気になりますよね。また、なぜ津和野にもお墓があるのかという改葬理由や、残された遺言の意味、さらには太宰治が同じ場所に眠っている理由や桜桃忌のことなど、周辺の歴史について深く知りたい方も多いのではないでしょうか。この記事では、そうした疑問にお答えしながら、三鷹の地域史やおすすめの文学散歩ルートまで詳しくご紹介していきます。ぜひ次のお出かけの参考にしてみてくださいね。

禅林寺森鴎外墓
  • 電車やバスを使ったアクセス方法と境内の駐車場情報
  • 弘福寺から三鷹へ改葬された理由と津和野のお墓の謎
  • 森鴎外の遺言に込められた思いと太宰治との不思議な縁
  • 桜桃忌の参拝マナーや周辺の文学散歩おすすめスポット
スポンサーリンク

東京都三鷹市にある禅林寺の森鴎外墓の基本

禅林寺は三鷹駅の南口から徒歩圏内にあり、閑静な住宅街の中に佇む歴史あるお寺です。まずは実際に訪れるために知っておきたい、交通手段や駐車場の情報、そして参拝に関する基本事項などをまとめてご紹介しますね。

電車やバスでのアクセス方法

禅林寺は、東京都三鷹市下連雀に位置しています。電車で向かう場合、最寄り駅はJR中央線・総武線の「三鷹駅」になります。

南口を出てから中央通りをまっすぐ進み、連雀通りとの交差点を左折するルートで、大人の足でだいたい徒歩10分から14分ほどで到着します。平坦な道が多いので、お散歩がてら歩くのにはちょうどいい距離かなと思います。

もし歩くのが少し大変だなと感じる場合は、三鷹駅南口から小田急バスを利用するのがおすすめです。「鷹51」「鷹52」「鷹54」「鷹65」のいずれかの系統に乗車し、約5分ほど揺られて「八幡前」停留所で下車すれば、そこから徒歩3〜4分で禅林寺の正面にたどり着くことができますよ。

境内の駐車場と周辺パーキング

車でお出かけを予定している方が一番気になるのが、駐車場の事情ですよね。嬉しいことに、禅林寺には連雀通り側の正面入り口に、なんと92台も収容できる立派なゲート式専用駐車場が完備されています。

特筆すべきは、駐車してから最初の20分間が完全に無料になるというシステムです。純粋にお墓参りだけをしてサッと帰るという方にとっては、とてもありがたいですよね。ただし、20分を超過した場合は、観光目的の参詣者に対して割引制度が適用されません(檀家さんや葬儀参列者は寺務所で割引処理があります)。

周辺のコインパーキング情報

長時間の三鷹散策を兼ねるなら、最大料金設定のある周辺のコインパーキングを利用するのが安心です。

駐車場名距離・所要時間料金体系の目安
禅林寺 境内駐車場(92台)境内直結最初の20分無料。以降は通常料金(観光用の割引なし)
タイムズ下連雀第16(5台)約90m(徒歩約1〜2分)20分220円/24時間最大1300円
リパーク下連雀4丁目第9(4台)約145m(徒歩約2分)20分220円/最大料金あり
タイムズ下連雀第11(14台)約155m(徒歩約2分)20分220円/24時間最大1800円

自動二輪車(バイク)で訪れる場合、駐車場のゲートが反応しないそうです。そのため、正面入り口から直接進入するように案内されていますので、ライダーの方は覚えておいてくださいね。

※駐車料金や各種条件は変動する可能性があります。記載の数値データはあくまで一般的な目安ですので、正確な情報は必ず現地や公式サイトでご確認くださいね。

参拝可能な開門時間と御朱印

せっかく訪れたのに閉まっていた、なんて悲しい思いをしないために、時間もしっかりチェックしておきましょう。

本堂への参拝や墓地への立ち入りは毎日可能となっており、開門時間は午前8時から日没までです。朝の清々しい空気を吸いながらのお参りも素敵ですよね。また、寺務所の取扱時間は午前9時から午後5時までで、火曜日が休業日となっています(春と秋のお彼岸、7月のお盆期間中は無休)。

御朱印についての注意点

神社仏閣巡りがお好きな方は御朱印を楽しみにされているかもしれませんが、現在、禅林寺では御朱印の取り扱いや御朱印帳への記帳は行われていません。御朱印目当てで訪れるとがっかりしてしまうかもしれないので、あらかじめ知っておいてくださいね。

弘福寺から改葬された歴史的経緯

インターネットで調べていると、「なぜ三鷹にお墓があるの?」「津和野にもお墓があるって本当?」といった疑問の声をよく見かけます。実は、鴎外の遺骨は最初から三鷹にあったわけではないんです。

大正11年(1922年)に61歳で亡くなった鴎外は、当初、東京の墨田区向島にある「弘福寺」に埋葬されました。ここは鴎外の故郷である津和野藩主の菩提寺であり、父親も眠っていたからです。しかし翌年、関東大震災という大災害が発生し、弘福寺は全焼してしまいます。さらに震災後の都市復興計画で、お墓の場所が立ち退き対象になってしまったんですね。

そこで、同じ「黄檗宗(おうばくしゅう)」の寺院であるという理由から、当時はまだのどかな武蔵野の村だった三鷹の禅林寺が移転先に選ばれ、昭和2年(1927年)に改葬されました。
さらにその後、昭和28年(1953年)になって、生誕の地である島根県津和野町の有志の熱心な働きかけがあり、禅林寺から分骨が行われました。これが、現在「森鴎外のお墓は東京と島根の2箇所にある」と言われる歴史的な真相なんです。

東京都三鷹市の禅林寺にある森鴎外墓の魅力

禅林寺森鴎外墓1

基本情報がわかったところで、ここからはお墓そのものが持つ文学的な魅力や背景について深掘りしていきたいと思います。遺言に込められた深いメッセージや、同じ墓地に眠る作家たちとの関係を知ることで、実際に足を運んだときの感動が何倍にもなるはずですよ。

遺言に込められた哲学と死生観

禅林寺を訪れると、山門を入ってすぐの藤棚のそばに「森鴎外遺言碑」が建っているのに気づくと思います。この碑は有名な建築家・谷口吉郎が設計したもので、とても端正な姿をしています。

鴎外は亡くなる3日前、生涯の親友であった賀古鶴所(かこ つるど)を枕元に呼び、口述筆記で歴史に残る遺言を残しました。その核心部分は、「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」(私は石見の国の人間・森林太郎として死にたい)という強烈な言葉です。

陸軍軍医総監や中将という国家の重鎮にまで登り詰めた彼ですが、死に際しては一切の栄誉や肩書きを断固として拒絶し、墓には「森林太郎墓」以外の一文字も彫ってはならないと厳命しました。エリート官僚としての重責と、自由な文学者としての魂。その生涯にわたる葛藤の末に、最後は虚飾を捨てて「ひとりの裸の人間」に戻ることを選んだ彼の潔い死生観に、私は深く胸を打たれます。

右隣に配置された弟の三木竹二

広大な墓地の中で、鴎外の墓は「09-06」という区画にあります。入り口の案内図を見ればすぐにたどり着けますよ。そこには中央の鴎外を囲むように、合計5基の墓石が整然と並んでいます。

左隣には妻の志げ子、右隣には父の静男が眠っていますが、文学や演劇が好きな方にぜひ注目していただきたいのが、さらにその右隣にある弟・森篤次郎(筆名:三木竹二)のお墓です。
彼は医師でありながら、明治期を代表する演劇評論家として近代歌舞伎の発展にものすごく大きな功績を残した人物なんです。偉大な兄のそばで、日本の文化を支えた弟が静かに眠っているという事実は、この場所の歴史的な価値をさらに高めているように感じますね。

太宰治が同じ墓地に眠る理由

そして、禅林寺を語る上で絶対に外せないのが、鴎外の墓から斜め向かいの場所に建つ太宰治のお墓です。

厳格な官僚作家であった鴎外と、破滅型の無頼派作家であった太宰。生前には何の接点もなかった二人が、なぜこの三鷹の地で向かい合っているのでしょうか。
実は、三鷹で晩年を過ごした太宰治は、散歩の途中で偶然このお墓を見つけ、鴎外の高潔で清潔な雰囲気に強く惹かれたんです。太宰は自身の小説『花吹雪』の中で、「自分の汚い骨も、こんな小綺麗な墓地の片隅に埋められたら、死後の救いがあるかもしれない」と、密かな憧れを赤裸々に綴っています。

そして昭和23年(1948年)、玉川上水で入水自殺を遂げた太宰の密かな願いは、遺族の尽力によって叶えられました。相反する生き方をした二人の天才が、時代を超えて永遠に向き合っている光景は、何度訪れても鳥肌が立つほどドラマチックだなと思います。

桜桃忌の参拝マナーと遺族の願い

毎年、二人の命日には多くの文学ファンがこの地を訪れます。7月9日の鴎外の命日「鴎外忌」は関係者で静かに偲ばれるのに対し、太宰の遺体発見日であり誕生日でもある6月19日の「桜桃忌(おうとうき)」は、大勢のファンが詰めかける一大イベントになります。

桜桃忌では、墓石の文字のくぼみにサクランボを詰めたり、太宰が愛したお酒やタバコを大量にお供えしたりする風習が長年続いてきました。しかし、近年これが深刻な問題になっています。

お供え物に関するマナー喚起

放置された食品が腐敗したり、カラスが散らかしたりして、墓石や敷地がひどく汚れてしまう被害が多発しています。津島家(太宰の遺族)やボランティアの方々からは、「お供え物はご遠慮いただくか、必ずお持ち帰りください」という強い悲痛なお願いが出されています。

文豪を愛し、偲ぶ気持ちはとても素晴らしいものですが、墓所の管理者やご遺族への配慮を忘れてはいけません。訪れる際は、マナーを守って清らかな心で手を合わせたいですね。

明暦の大火と三鷹の歴史的系譜

さて、ここからは少し視点を変えて、なぜこの三鷹という場所に由緒あるお寺が存在するのか、という歴史のロマンに触れてみたいと思います。

禅林寺のある「下連雀(しもれんじゃく)」という地名のルーツは、江戸時代初期に起きた日本史上最悪の火災「明暦の大火(1657年)」にまで遡ります。焼け出された神田連雀町の住民たちが、幕府の命令で武蔵野の台地へ移住し、過酷な開拓の末に作ったのが「連雀村」でした。その移住者たちの心の拠り所として開かれたのが、禅林寺の始まりなんです。

さらに近代に入ると、大正時代に三鷹駅の設置運動が起こった際、禅林寺は所有していた約750坪もの土地を無償で提供し、駅開業の決定的な後押しをしました。つまり、禅林寺はただの文豪のお墓がある場所というだけでなく、三鷹という街の誕生と発展をずっと見守り、支えてきた地域の要なんですよね。

周辺の太宰治文学散歩ルート

せっかく三鷹の禅林寺まで来たのなら、周辺の史跡も一緒に巡る「文学散歩」を楽しむのが断然おすすめです。三鷹駅南口の周辺には、太宰治が戦後の執筆生活を送り、最期を迎えた当時の面影を感じられるスポットがギュッと密集しているんです。

おすすめの回遊スポット

  • 太宰治文学サロン:かつて通った酒店の跡地。原稿の展示や案内があります。
  • 中鉢家跡・野川家跡:『ヴィヨンの妻』や、絶筆となった『グッド・バイ』を執筆した仕事場跡。
  • 玉川上水と玉鹿石:太宰が最期を迎えた場所。故郷・青森産の石碑が建っています。

駅前を出発してこれらのスポットや玉川上水沿いをのんびり歩き、最終地点として禅林寺へ向かうルートを組むと、より深く文学の世界に浸ることができます。
三鷹から少し足を伸ばせば、井の頭自然文化園などの三鷹・吉祥寺の連続した文化圏を満喫したり、三鷹の森ジブリ美術館周辺の風の散歩道を歩くこともできます。また、少し趣向を変えて、国立天文台三鷹キャンパスでの宇宙のロマンに触れる観光を組み合わせるのも、素敵な休日の過ごし方になりそうですね。

東京都三鷹市の禅林寺にある森鴎外墓まとめ

東京都三鷹市にある禅林寺の森鴎外墓について、アクセスから歴史的背景まで詳しくご紹介してきました。立派な駐車場が完備されていて最初の20分が無料であることや、三鷹駅からのアクセスも良好なことがお分かりいただけたかと思います。

地位や名誉を捨ててひとりの人間として眠ることを望んだ森鴎外と、その高潔さに惹かれて足元に眠る太宰治。対極の人生を歩んだ二人の文豪が対峙するこの場所は、単なる観光スポットを超えた深いドラマに満ちています。
桜桃忌などでお参りをする際は、ご遺族や周囲への配慮を忘れずに、静かに敬意を払う大人のマナーを心がけたいですね。ぜひ今度の休日は、三鷹の歴史と文学の息遣いを感じる散策に出かけてみてはいかがでしょうか。

タイトルとURLをコピーしました